リュミエール兄弟の兄とフランスの学校で同窓だった紡績業者の稲畑勝太郎が、シネマトグラフを輸入して1897年2月15日に大阪の南地演舞場で上映したのが我が国で公開された初めての映画である。内容はニューヨークの街頭、パリのダンスホール、ロンドンのテームズ河畔の風景等であり、パリでの初公開から2年後だった。8日後の2月23日には西洋雑貨商の荒木和一がエジソンのヴァイタスコープをやはり大阪の新町演舞場で、3月6日に神田の錦輝館で上映している。劇映画への試みは映画興行の草分けである駒田好洋が、当時、世間を騒がした強盗事件をヒントに数分足らずの作品を仕上げた。1903年には浅草に最初の常設館である電気館ができたが、主に外国の風景をスケッチしたものだった。1908年頃からは演劇をスクリーンに移し変えただけの”映画”が作られ始め、この過程でスターが誕生した。「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助である。これを機会に我が国の映画産業が本格的に歩み始めた。参考文献:キネマ旬報社刊「「日本映画史」


 豪傑一代男(昭和25年))

 愛怨峡(昭和12年)
 アナタハン(昭和28年)