目次

 ゲイリー・クーパー
 ポール・ムーニ
 マレーネ・ディートリッヒ
 タイロン・パワー
 エロール・フリン
 ベティ・デイヴィス
 ジーン・ティアニー 
 グレタ・ガルボ

 ジェラール・フィリップ  シャルル・ボワイエ 


ゲイリー・クーパー
Gary Cooper

 大学を卒業後、国立公園のガイドをしたり地元紙に政治漫画を書いたりしていたが、1924年に漫画家を目指してロス・アンジェルスに出る。夢破れて映画界入りし、「つばさ」で端役出演した彼に女学生が目をつけて、本国よりもまず日本で人気が出たのはおもしろい。「摩天楼」で共演したパトリシア・ニールとの恋はクーパーを苦しめるが、終生、妻を守り通した。1961年に前立腺ガンで亡くなった日、カンヌ映画祭は彼の功績を称えて”ゲイリー・クーパー賞”を設立した。「ヨーク軍曹」と「真昼の決闘」で2度のオスカーを受賞。「市街」
「生活の設計」「真珠の首飾り」「無宿者」「ダラス」「スプリングフィールド銃」「北西騎馬警官隊」「遠い太鼓」発売中。

七日間の休暇(1930) 或る日曜日の午後(1933)
結婚の夜(1935)  将軍暁に死す(1936) 
マルコ・ポーロの冒険(1938)  青髭八人目の妻(1938) 
ボー・ジェスト(1939) ヨーク軍曹(1941)
教授と美女(1941)  打撃王(1942)
サラトガ本線(1944) クーパーの花婿物語(1944)
善人サム(1948)    
摩天楼(1949)  楽園に帰る(1953) 



マレーネ・ディートリッヒ
Marlene Dietrich

 王立プロシア警察の将校の娘として厳格な家庭で育つが、父親が幼くして死亡。1922年にマックス・ラインハルトの主宰する演劇学校に入学して舞台に立ち、1924年に助監督のジーバーと結婚して唯一の子供マリアが誕生した。スタンバーグ監督に認められ、彼と恋に落ちたディートリッヒはアメリカに渡り「モロッコ」を第一作としてふたりのコンビで7作品を発表する。いずれも光と影を巧みに使い、彼女の美が鮮やかに引き出されている。ナチスの宣伝に利用されることを嫌い、1939年にはアメリカ市民権を獲得してヨーロッパの戦地に米軍の慰問に出かけ、得意の喉を披露した。「無頼の谷」「異国の出来事」「天使」も発売中。

 モロッコ(1930)  間諜X27(1931)
 恋の凱歌(1933)      
 スペイン狂想曲(1935)     真珠の首飾り(1936) 
 沙漠の花園(1936)  男性都市(1942)
 キスメット(1944)     黄金の耳飾り(1947) 



エロール・フリン
Errol Flynn

 大学教授の息子という恵まれた環境に生まれながら生来の冒険好から、10代の頃から探検家を夢見て各地を転々とした。本人は剣戟スターとして世界を股にかけて暴れまわるという役ばかり巡ってくることに不満を抱いていたようだが、後年、結婚生活に破れてスペイン内乱に参加したことなども考え合わせると、彼の個性に相応しいまさに適役だったように思える。「海賊ブラッド」で共演したオリヴィア・デ・ハヴィランド(東京生まれだそうである)と恋に落ち、彼女が作家と結婚した1946年頃から分裂症的徴候を現し、酒浸りになったと言われている。カストロを崇拝し、キューバに渡ったこともあるらしい。「ヴァジニアの血闘」も発売中。

 進め竜騎兵(1936)     鉄腕ジム(1942)
 ドン・ファンの冒険(1948)



ポール・ムーニ
Paul Muni

 1895年に旅回りの俳優を両親としてオーストリアに生まれる。幼い頃からドイツ語の舞台に立ち、アメリカとヨーロッパを巡ったが、英語劇の舞台に立つのは31才になってからである。ブロードウェイで確固たる地位を確立し、フォックスに招かれる。デヴュー作のThe Valiant(1929)で早くもアカデミー賞男優賞にノミネートされた。ワーナーに移ってからは多くの伝記映画に出演し、「科学者の道」ではアカデミー賞主演男優賞を受賞。むしろ舞台に情熱を向けていたのか、経歴の割りに映画出演作は少ない。晩年は目が不自由になり、長い闘病生活の末1967年に心臓病で亡くなった。

 暗黒街の顔役(1932)  仮面の米国(1932)



タイロン・パワー
Tyrone Power

 有名な俳優だった父親の影響を受けて舞台でデヴューした後、映画界入り。出征した第二次大戦を挟み、30年代から40年代にかけてトップ・スターの地位を守るが、彼自身は美男俳優と言われることを嫌い、Nightmare Alley(1947)で演技派としての新境地を開拓すると共に、舞台にも出演。多くの作品でH.キング監督とコンビを組む。「ソロモンとシバの女王」を撮影中に心臓麻痺のため44歳の若さで急死。3度の結婚歴があり、最初の妻はフランスの名花アナベラ。2度目の妻との間に生まれた娘ロミナはヨーロッパで女優として活躍した。「世紀の楽団」も発売中。
 
 マリー・アントワネットの生涯(1937)     シカゴ(1938)
 スエズ(1938)     


ベティ・デイヴィス
Bette Davis

 ブロードウェイの舞台で成功した後ハリウッドに渡りサミュエル・ゴールドウィンのスクリーン・テストを受けるが落とされ、32年にワーナーと7年契約を結ぶ。しかし、しばらく芽が出ず、34年にRKOに貸し出されて出演した「痴人の愛」で認められる。その後は35年の「青春の抗議」、38年の「黒蘭の女」と2度のオスカーに輝いたほか、8作品でノミネートされている。キャサリン・ヘップバーンと共にハリウッド映画史上、屈指の演技派女優であった。50年の「イヴの総て」以降は作品に恵まれず、60年代には醜悪な老女役を演じたりしていたが、87年の「八月の鯨」で最後の華を咲かせてくれた。「札つき女」「ハリウッド玉手箱」も発売中。

黒蘭の女(1938) 愛の勝利(1939)
月光の女(1940)    偽りの花園(1941)  
情熱の航路(1942)    ラインの監視(1943) 


ジーン・ティアニー
Gene Tierney

 1920年ニューヨーク生まれ。保険ブローカーを父に恵まれた環境で育つ。スイスの学校から帰国後、社交界でアナトール・リトヴァク監督に見出され、両親の反対を押し切って映画界入りする。40〜50年代にかけてあらゆるジャンルの作品をこなして人気を博した。41年に衣装デザイナーと結婚して長女が知恵遅れだったことや離婚が原因で精神を病んだ時期があったが、笑顔にさえ時に愁いを感じさせるのは、こんな経験が影響しているのだろうか。しかし、60年にテキサスの石油王と再婚してからは自伝を書いたり慈善運動に参加したり、悠々自適な生活を送り、91年に71歳で肺気腫で亡くなるまで幸せに暮らしたようなのは喜ばしい。「夫は偽者」「地獄への逆襲」も発売中。

幽霊と未亡人(1947) 哀愁の湖(1946)



ジェラール・フィリップ
Gerard Philipe

 ホテルの支配人を父に持ち、カンヌに生まれる。第二次大戦の勃発で、戦火を咲けて南フランスにやってきた映画人と知り合い、42年にニースのカジノ座で初舞台を踏んだ。43年には「夢の箱」で映画にもデヴュー。46年の「白痴」が絶賛されてスターの地位を確立した。そして、翌年の「肉体の悪魔」でその人気は世界的なものになった。53年に「フランス映画祭」で来日した折りの歓迎ぶりはすさまじいものだったという。美貌に恵まれた二枚目であるだけでなく、舞台でも高く評価された演劇人であり、知識と品格と神秘性を備えた真のスターだった。36才の若さで急死したのが惜しまれる。彼の故郷だったカンヌの駅前には彼を偲ぶ青いプレートが飾られているらしい

白痴(1946)    肉体の悪魔(1947) 
美しき小さな浜辺(1948)    悪魔の美しさ(1949) 
愛人ジュリエット(1951)    夜ごとの美女(1952) 




シャルル・ボワイエ
Charles Boyer

 ソルボンヌ大学を卒業後、コンセルヴァトワールで演劇を学ぶ。20年から舞台に立っていた。数本の映画にも出演した後、34年に渡米して「キャラバン」でハリウッドデヴューし、この年にイギリス人女優のパット・パターソンと結婚。その後は都会的な洗練された二枚目として、多くの恋愛映画に出演する一方、ブロードウェイの舞台にも立っていた。晩年まで現役として活躍していたが、妻をガンで亡くした2日後に大量の睡眠薬を飲んで亡くなった。ひとり息子も21才で自殺している。笑顔の中にも憂いが感じられるのも,こんな彼のこんな環境が影響しているのかも知れない。「運命の饗宴」 「肉体と幻想」も発売中。



うたかたの恋(1936)   沙漠の花園(1936) 
歴史は夜作られる(1937)     征服(1937) 
裏街(1941)    

  

 グレタ・ガルボ
Greta Garbo

 スウェーデン生まれ。貧しい家庭に産まれ、14歳から働いていた。帽子のモデルに起用されたのが切っ掛けで22年に「放浪者ペッテル」で端役に「器用され、24年には「イエスタ・ベルリングの伝説」で主役に抜擢された。25年にMGMのルイス・メイヤーにスカウトされて「イバニエスの激流」でハリウッド・デビュー。エキゾチックな魅力が評判になり、3作目の「肉体と悪魔」で国際的スターの地位を確率した。37年の「椿姫」の演技が高く評価されて、ニューヨーク映画批評家賞の女優賞を獲得するが、オスカーは惜しくも受賞はならなかった。しかし、41年の「奥様は顔が二つ」に出演後、36際の若さで引退してしまう。その後は無聊をかこtる日々を送ったらしい。晩年は週に3度の腎臓透析治療を受けていたという。


スザン・レノックス(1931) 
征服(1937)
グレタ・ガルボ(1931-1941) 
彩られし女性(1934) 
奥様は顔が二つ(1941)