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![]() Ernst Lubitch 1892年にベルリンに生まれたが、少年時代から俳優を目指してマックス・ラインハルトの劇団で学んだ後、21歳で喜劇俳優として映画界入り。その後、主に脚本家のハンス・クレイリーとのコンビで数々の作品を監督。ポーラ・ネグリを売り出し、エミール・ヤニングスを育てた。ハリウッドに招かれてからは、後年ビリー・ワイルダーに受け継がれた”ルビッチ・タッチ”と称される洒脱なエロティシズムで風俗喜劇に一時代を築いた。トーキーになってからはシネ・オペレッタのジャンルを創造してミュージカルにも貢献。常に手放さなかった葉巻と共にハリウッドに君臨し、パラマウント映画会社の撮影所長を務めていた時期もある。「私の殺した男」も発売中。 |
![]() Rouben Mamoulian 1898年ロシア生まれ。モスクワ大学を卒業後、舞台監督になり1920年に公演でイギリスに渡る。翌年にはアメリカに移ってイーストマン劇場でオペラやオペレッタの演出を手掛けた。ニューヨークのシアター・ギルドを経てブロードウェイで数々のヒット作を出した彼は1929年にパラマウント映画に招かれて映画界入り。舞台の経験を映画製作にあたってすべて捨て去り、豊かな映画的テクニックを駆使して送り出した作品は15本と寡作だが、戦後も主にミュージカルの舞台演出を続けた。「虚栄の市」(1935)で早くもカラー作品を発表するなどトーキー創生期の映画界に多大の貢献をした。 |
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