目次


 B.クロスビー&B.ホープ  フレッド・アステア
 ジュディ・ガーランド  ドリス・デイ
 ダニー・ケイ   


 1927年にトーキーが登場すると同時に、映像と音楽を結びつけた新しいジャンルのミュージカル映画が誕生した。従来はリアリズムの芸術であった映画に歌や踊りを持ちこんだ、いわばおとぎ話的なファンタジーと言える。当時はジーグフェルド・フォリーズを中心とするレヴューが全盛であったが、しょせんは大都会に住む人々の娯楽であった。第9回アカデミー賞作品賞を受賞した「巨星ジーグフェルド」はブロードウェイでレヴューの王様と称されていたフローレンツ・ジーグフェルドの伝記映画である。ミュージカル映画はこの華やかなショーをスクリーンで観ることを可能にしたのだった。舞台からはアル・ジョルスン、フレッド・アステア、ビング・クロスビー、モーリス・シュバリエ等が映画界入りした。そして、1929年の大恐慌以来、混迷状態にあったアメリカがルーズヴェルトの登場と共に活気を取り戻し、生活を楽しむ余裕が出て来たのが30年代の中頃である。各社は競ってミュージカル映画を製作し、数々の傑作が生まれた。MGMは1929年に第回アカデミー賞作品賞を受賞した「ブロードウェイ・メロディ」をシリーズ化し、ワーナーもゴールドディガースを5本、パラマウントは”大放送”シリーズを4本製作。「ダンシング・レディ」でデヴューしたアステアがRKOでジンジャー・ロジャースとコンビを組んで成功したのも特筆される。 参考文献:芳賀書店刊「ミュージカル映画」。


マミィ(1930)  三文オペラ(1931) 
四十二番街(1933) フットライト・パレード(1933)
ウィンナー・ワルツ(1933)  ゴールド・ディガース(1933) 
風来坊(1933)   ボレロ(1934) 
はだかの女王(1934)  タムタム姫(1935) 
浮かれ姫君(1935)   ルンバ(1935) 
ゴールド・ディガース36年(1935) ショウボート(1936
踊るアメリカ艦隊(1936)   世紀の楽団(1938
踊る不夜城(1938 かれらに音楽を(1939 
ゴールドウィン・フォリーズ(1938    マイアミの月(1941 
オーケストラの妻たち(1942   ロッキーの春風(1942 
デュバリイは貴婦人(1943)   春の序曲(1943)
バズビー・バークリーの
  集まれ!仲間たち(1943)
ハリウッド玉手箱(1944)  
ストーミー・ウェザー(1943)  世紀の女王(1944) 
幻想交響楽(1944) 姉妹と水兵(1944) 
ジーグフェルド・フォリーズ(1946) ユーモレスク(1947)
カーネギー・ホール(1947)
ニューオリンズ(1947)  
エディット・ピアフの
  9人の少年・心はひとつ(1948)
  
ワーズ&ミュージック(1948)   
虹の女王(1949)  ショウ・ボート(1951) 
ホフマン物語(1951) メリイ・ウィドウ(1951)
夜も昼も(1951)  歌劇王カルーソ(1952) 
わが心に歌えば(1952)  リリー(1953) 
コール・ミー・マダム(1953)    







ビング・クロスビー&ボブ・ホープ
Bing Crosby & Bob Hope

 共に1903年生まれで、ホープは100歳で、クロスビーは74歳で亡くなった。学生時代からグリークラブで活躍していたクロスビーは、ポール・ホワイトマンに見出されてたちまち人気者になる。映画では「キング・オブ・ジャズ」で長編デヴュー。32年には破格の条件でパラマウントに移りラジオでも活躍した。一方、ヴォードヴィリアンとしてユーモラスで軽妙なセリフが持ち味だったボブはラジオに進んだ後、1938年に「百万弗大放送」で映画デヴュー。1940年にクロスビーと共演した珍道中シリーズはパラマウントのドル箱シリーズとなった。自分のプロダクションを起こして成功し、頂点を極めた2人は共に幸せな晩年を過ごしたと言われている。

 シンガポール珍道中(1940) ブルースの誕生(1941)
 アフリカ珍道中(1941) モロッコへの道(1942) 
アラスカ珍道中(1946)  南米珍道中(1947) 
皇帝円舞曲(1948)  黄金の雨(1953)


フレッド・アステア
Fred Astaire

 1899年ネブラスカ生まれ。ビール醸造業を営む父親を持ち、5歳で姉と共にダンス学校に入り、7才でプロ・ダンサーとして全米を巡る。姉が結婚したため33年に「ダンシング・レディ」で映画界入り。翌年の「空中レヴュー時代」でジンジャー・ロジャースとのコンビが誕生して、以降、RKOで数々の名作ミュージカルを世に送り出した。ダンスに関しては完璧主義者でロジャースともしばしば対立したらしい。しかし、39年にコンビを解消してからも周囲から押されて精力的な活動を続け、49年には長年のミュージカル映画へのへの貢献によりアカデミー賞特別賞を受賞している。
 
 ダンシング・レディ(1933) 空中レヴュー時代(1933)
 ロバータ(1935)  踊る騎士(1937)
 踊るニューヨーク(1940)  スイング・ホテル(1942) 
 ヨランダと盗賊(1945) ブルー・スカイ(1946) 
 ブロードウェイのバークレー夫妻(1949)
土曜は貴方に(1950)
 レッツ・ダンス(1950) 踊るブロードウェイ(1935)
 ベル・オブ・ニューヨーク(1952)   



ジュディ・ガーランド
Judy Garland

 1922年ミネソタ生まれ。ヴォードヴィリアンを両親に三歳で舞台に立つ。36年にMGMに入社して39年の「オズの魔法使い」で認められる。「若草の頃」の監督ヴィンセント・ミネリと45年に結婚して翌年にはライザ・ミネリが生まれるが睡眠薬を多用する等、精神的に不安定になり50年に離婚。その後も酒浸りの生活が続き、気まぐれな正確も災いして次第に活動の場が狭められたのは、ミュージカルのみならずシリアスなドラマでも見事な演技を見せてくれた彼女だけに残念なことと言えよう。。69年にロンドンのキャバレーのショーに出演後、まもなく急死した。

美人劇場(1941) ハーヴェイ・ガールズ(1946)
踊る海賊(1948) グッド・オールド・サマータイム(1949 
サマー・ストック(1950


ダニー・ケイ
Danny Kaye

 1913年にユダヤ系移民の子としてニューヨークに生まれる。41年にブロードウェイのミュージカル「Lady in The Dark」での早口でのおしゃべりが絶賛されて、サミュエル・ゴールドウィンに見出され、44年に「ダニー・ケイの新兵さん」で映画デヴュー。その後も独特の和芸やコミカルな演技で一世を風靡し、54年にはアカデミー賞特別賞を、63年に始まったテレビの「ダニー・ケイ・ショー」ではエミー賞を受賞した。また、ユニセフの親善大使として世界各国のチャリティ・ショーのステージに立ち続けたことでも知られている。

ダニー・ケイの新兵さん(1944)  ダニー・ケイの天国と地獄(1945) 
ダニー・ケイの牛乳屋(1945) 虹を掴む男(1947)
ヒット・パレード(1948) 夫は偽者(1951)
 


ドリス・デイ
Doris Day

 1922年、オハイオ生まれ。レス・ブラウン楽団専属歌手として売り出し、「センチメンタル・ジャーニー」の大ヒットでトップ歌手になる。映画でヴューは48年の「Romance on The High Seas」で、当初からコメディ・センスを買われて、51年には早くもマネー・メイキング・スターのトップテンに顔を出した。彼女の成功には3度目の夫、マーチン・メルチャーの功績が大きいが、彼の死後、投資の失敗による多額の負債が発覚して苦労したらしい。4度目の結婚に失敗してからは、もっぱら動物に愛情を注ぎ、今でも自分の名を冠せた”
ドリス・デイ動物基金”の理事長をしている。

洋上のロマンス(1948) 情熱の狂想曲(1949)
夢はあなたに(1949)  ムーンライト・ベイ(1951) 
ブロードウェイの子守唄(1951) 夢で逢いましょう(1951)
四月のパリ(1952)  銀色の月明かりの下で(1953)